「水都大阪のこれまでとこれから」嘉名光一氏WS取材レポート(1/2)

300DOORSワークショップ取材レポート第4弾!
大阪市立大学大学院の嘉名先生によるWS「水都大阪のこれまでとこれから」を取材してきました!

今回のWSは、水都大阪の歴史を学び、今後の水都のあり方をざっくばらんに話し合ってみようというもの。
まずは嘉名先生から、大阪が今の水の都となるまでの歴史をお話くださいました。

水辺とともに生きた人々の暮らしをご紹介くださいました

昔は海の中にあった大阪
約7千年前、なんと大阪は海の中にあったそうです!(※上町台地を除く)
その後、河川からの土砂の堆積や、都市開発による埋め立てにより徐々に陸地が増えていきました。

戸時代後期/多くの機能を有していた水辺
この頃の水辺の様子は、「摂津名所図会」という、今で言うところの観光ガイドブックに描かれているそうです。
まだ大阪が「大坂」と表記されていた頃、「八百八橋」と呼ばれたように、堀川が縦横無尽に町の中を流れ、多くの橋がかけられていました。
当時の水辺は、日常的な買い物を行う「市場」としての機能、幕府からの知らせを受けたり情報交換を行う「広報の場」としての機能、道頓堀川沿いの芝居小屋に船で乗りつけ、芝居と食事を楽しむ「遊楽の場」としての機能、夕涼みをする「納涼の場」としての機能があったそうです。

人々の暮らしが、水辺と密接だったことがわかりますね!


大正時代末期~昭和初期/街と一体となった水辺
この頃の水辺の様子は、当時の絵葉書を見るわかるそうです。建物が水辺に向かって建てられていて、人々の意識が水辺に向けられていました。
当時行われた第一次都市計画事業で、151もの橋が架けられ、水都としての町並みが色濃くなりました。
その都市計画事業の中心人物であった建築家武田五一は、大阪の町は橋が架けられた後に周辺に建物が建ち並ぶことに着目し、橋の意匠デザインとその周辺建物との調和を重要視しました。

水辺と町の一体的なデザインを目指した武田五一


武田は、「同じ河川上に架かる橋が同じ形であるのは好ましくない」と考え、中之島界隈の河川に架かる橋は、隣同士異なる形(※)のものを配置しました。
また、彼が設計した朝日新聞社と渡辺橋(当時)には、類似したモチーフが用いられているなど、橋と建物の一体的なデザインに力を注ぎました。

彼の功績により、近代に入ってもなお、豊かな水の都の姿が保てたのですね!

※アーチ橋、上弦橋、桁橋の3形状。ただし、稼動堰であった水晶橋、錦橋を除く


戦前~戦後/街から背を向けられた水辺
この時代、相次ぐ台風や人口増加による高潮被害・地盤沈下・水質悪化が起き、加えて、栄えていたいた舟運が低下し車社会へと変わっていきました。
多くの堀川も埋めたれられ、道路へと変わってしまいました。人々の意識は次第に水辺から離れていったそうです。

現代そしてこれから/再び身近になりつつある水辺
一度は街から背を向けられた水辺。しかし社会基盤の整備やライフスタイルの変化によって再び水辺への関心が高まりつつあります。
水都大阪2009では水辺空間を使った様々な取り組みが行われました。そしてその後も、水辺BARや水辺ヨガ、水辺の観光案内など水辺を「使いこなす」人々が増えてきています。

「人が居て初めて水辺の風景になる」と嘉名先生はおっしゃいます。
まずは自分なら水辺で何がしたいだろう?家族や友人など身近な人と何を楽しみたいだろう?そんな気持ちを語り合うことから、水都大阪のこれからが形作られていきます。


自分たちならどう水辺を使いたいだろう?

講座後半では、「自分たちが水辺でしたいこと」のアイデアだしを2グループに分かれて行いました!
つづく。

文/しおりん
取材/けーた、写真/りえ、ニイさん、記録/しおりん


0 件のコメント:

コメントを投稿